ヨハネスブルグサミット通信3 

2002年9月3日(火)

特定非営利活動法人  地球環境と大気汚染を考える全国市民会議(CASA)

 

極めて不十分な世界実施文書

9月2日午後9時、最後まで残っていた再生可能エネルギーの目標値についての合意が成立し、世界実施文書についてはほぼ最終的な合意が成立しました。

しかし残念ながら、合意された世界実施文書は極めて不十分なもので、「生態学的なカタストロフィー(破局)が到来」する危険性がますます高まっている現状を打開する行動計画にはほど遠いものになってしまいました。

 世界実施文書の課題は、@「アジェンダ21」のほとんどが何故実施されなかったのかを検証するとともに、リオで積み残した環境と貧困、多国籍企業の規制の問題やリオ以降に問題化した環境問題について議論し、今後10年の数値目標をもった具体的な行動計画を策定すること、A砂漠化防止条約、京都議定書、バイオセーフティ議定書、残留性有機汚染物質(POPs)に関するストックホルム条約などの環境条約を一刻も早く、確実に実施することを確認すること、Bそしてなによりも、世界貿易機構(WTO)や国際通貨基金(IMF)などが進めている経済のグローバリゼーションより、環境問題の解決が優先することを確認することであったはずです。

ところが、「アジェンダ21」の検証はまったくなされず、環境と貧困の問題についてもほとんど見るべき成果はありません。また、数値目標についても衛生(サニテーション)や生物多様性についての数値目標は合意されましたが、再生可能エネルギーについての数値目標は合意できませんでした。

企業責任については、「企業責任を促進する(promote)」との表現で、一部の国から提案されていた「奨励する(encourage)」との表現で合意されましたが、環境NGOが求めていた「企業責任についての国際的枠組み」については合意されませんでした。

また、世界貿易機構(WTO)と多国間環境条約(MEA)との関係についても、提案されていた「WTOとの一貫性を保持する」との表現はなくなりましたが、貿易の自由化より環境問題の解決が優先する表現は入っていません。

「共通だが差異ある責任」については、環境に関する部分については記述が残っていますが、開発に関する部分については記述がない形で合意されています。

 また、市民の参加について実施文書の「情報公開と住民参加に関する世界的なガイドラインの策定」の記述は途上国やアメリカなどの反対により削除されてしまいました。

 

再生可能エネルギーの合意に抗議声明

ヨハネスブルグサミットの成否を決める重要なポイントの1つである再生可能エネルギーの数値目標についは、一部の途上国、アメリカや日本の主張が通り、数値目標なしの合意になってしまいました。また、この合意文書では、技術移転支援の対象として第9回持続可能な開発委員会会議(CSD9)で議論された原子力を含む持続可能なエネルギーの定義に言及し、原子力発電も容認するかのような表現になっています。今回の合意は明らかに、地球温暖化防止などの交渉を通じて、化石燃料から再生可能エネルギーを重視する方向に進みつつある世界の潮流に水を差すものです。

再生可能エネルギーの数値目標については、途上国グループから、数値目標の記述がないだけでなく、クリーンな化石燃料の途上国への技術移転への補助強化を促す記述が入った案が提案され、これをアメリカや日本が支持し、これが今回の合意の基になりました。この途上国グループの提案は、産油国やアメリカとともに日本が妥協案づくりの中核となっています。ブラジルなどの提案は、産油国やアメリカ、日本などの強硬な姿勢の前に表に出ることなく、葬り去られてしまいました。

日本政府の再生可能エネルギーの数値目標に反対する交渉ポジションは、京都議定書の重視を呼びかけ、世界実施文書の京都議定書の部分について調整をした日本政府の対応とも矛盾すると言わねばなりません。

このヨハネスブルグサミットでは、地球温暖化問題の解決のためにも、また、エネルギーへのアクセスが困難な20億の人々が人間としての基本的なニーズを満たすためにも、再生可能エネルギーの数値目標に合意することが求められていました。

CASAなど、ヨハネスブルグサミットに参加している環境NGOは、9月1日、再生可能な自然エネルギーの具体的数値目標の設定を求める「緊急共同声明」を出していましたが、今回の合意を受けて、別記の「緊急声明」を発表しました。

 

サミット議長、政治宣言案を発表

 9月2日、サミット議長は、世界実施文書と並んでヨハネスブルグサミットで決議される「政治宣言(ヨハネスブルグ・コミットメント)案」を発表しました。

 この文書については、ヨハネスブルグサミットで新たな成果を盛り込みたい南ア政府と、サミットを世界貿易機関(WTO)第3回閣僚で採択されたドーハ宣言や今年3月の国連開発資金会議のモンテレイ宣言の内容を超えないものにしたいアメリカなどとの間での綱引きが続けられていたと言われます。

発表された政治宣言案は、6章69項からなり、これまで公表されていた「政治宣言の要素」とはかなり違う内容になっています。その内容は、予想通り妥協の産物で、弱い内容となっています。例えば、「共通だが差異ある責任」には言及していますが、「予防原則」への言及はなく、情報公開や政策決定への市民参加への言及もありません。気候変動に言及した部分では、再生可能エネルギーの文言はありません。

しかし一方で、ドーハ宣言やモンテレイ合意、世界貿易機構(WTO)の文言はまったくなく、アジェンダ21と国連ミレニアム宣言の役割が強調されています。また、「多国間協調の将来(Multilateralism is the Future)」の章では、「世界でもっとも普遍的(universal)で責任のある機関である国連の役割を支持する」との記述がなされているなど支持できる内容も含まれています。このヨハネスブルグサミットでは、国連の役割を弱める動きもあり、また、非国連機関である世界貿易機関(WTO)のルールと国連の多国間環境条約(MEA)のルールとの優先関係が焦点になっており、この記述が政治宣言に記述されることには大きな意義があります。

こうした国連の位置付けにはアメリカなどの反発が予想され、残り1日の交渉が注目あれます。

 

ソウェト(South Western Township)へのツアー参加

ヨハネスブルグの外れにある黒人居住区、ソウェトを訪れました。ここはアパルトヘイト時代に弾圧され、今なお十分なインフラが整っていない場所が多く残る地域です。朝10時に集まり、JVCの方と現地で青年への支援ボランティアをやっているルイの案内でHector Pieterson記念館、障害児の施設、お酒とドラッグから離れるための共同生活施設、孤児やHIV/AIDSにかかっている子供を預かる保育所のような施設を訪問しました。

NGO広場(ナズレック)を車で少し離れるとそこがもうソウェトで、初めの目的地であるHector Pieterson記念館までの間に、車窓から見える建物や景色をルイが解説してくれました。それによると、NGO広場すぐ近くに見える丘は金鉱を掘った時の土で出来ており、有害な金属が含まれているため、風下にあるソウェトの住民は結核になる人が多いということでした。また、途中で見えた家の屋根はアスベストで出来ており、ガンなどの病気が多いということでした。彼らの家は3×4mの部屋が4つあり、そこに6〜8人(現在子供は一家庭約4人、昔は約15人)が住み、つい最近まで石炭を使っていたため全ての家に煙突がついていました。現在では90%の家に電気が通り、80%に電話もついているということです。この村を抜けると、アパルトヘイト時代に各地から集められた黒人男性の寮を通りました。古びた建物で窓ガラスは割れ、あちこちにゴミが落ちていて、ルイは「HIV/AIDS患者が多いけれど、識字率が30%だから教育するのは大変です。パンフレットをあげても字が読めないから、ラジオや教会で彼らの話す言語で様々な指導をやっています。」と言っていました。しばらく行くと今度はソウェトの中でも裕福な家が並ぶ場所を通り、その一角にネルソン・マンデラが住んでいたという家がありました。彼は62年〜90年まで投獄され、出てきた後すぐこの家に住んでいたようです。

ここでルイが、このソウェト地域の面白い話を教えてくれました。それはここに住む人たちはソウェト魂を持っていて、皆ここを愛している。ここのコミュニティーは強固に結びついていて、その証拠に結婚式には2000人が集まる、という話から始まったのですが、この結婚するまでの道のりが実にユニークです。結婚を思い立ったら、まず男の人が自分の母親になぜ結婚したいのか相手のどこが良いかということを説明します。母親がそこで納得すると、今度はおじいちゃんからおばちゃんまで親戚が大勢集められて彼らの質問攻めにあい、それにちゃんと答えなければなりません。それをクリアすると今度は花嫁となる相手の親戚と話し合うための協議チームが結成されます。この2家族の協議は長い場合は2ヶ月にも及ぶそうです。十分話し合い、花嫁の家族が花婿をもらっても良いという結論に至れば、白旗を振って結婚が成立。盛大に祝うということでした。聞いていると女性の方が強いようで、父親の出番なしです。

Hector Pieterson記念館でのルイの話は、とても衝撃的で悲しいものでした。Pieterson(当時13歳)は、南ア政府が押し付けたアフリカーンス語の教育に抵抗して立ち上がった子供たちの抗議行進で、警官の発砲によって殺された最初の犠牲者の名前です。それまで子供たちは英語で教育を受けてきましたが、1976年6月、黒人の教育をすべてアフリカーンスにするという政府に、子供たちは反対すれば投獄されるため、親には秘密にしてこの記念館の近くに集まったそうです。「何千人と犠牲になったこの事件がなければ、今の南アフリカはない。これが、アパルトヘイトに対して私たち黒人がNO!と言い始めた大きな転換点でした。」

ルイはアパルトヘイト時代について、自分の結婚についてのエピソードも語ってくれました。それは奥さんには内緒ということでしたが、政府の政策で、家を取得するためには結婚していなければならなかったため、今の奥さんと結婚したということです。それはルイの家族が家を取得するために決めたことで、ルイは結婚するまで相手を知らなかったということでした。「でもいざ結婚をして家を申請しに行くと、すでに2000人が予約リストで待っている状態で、結局家はすぐ手に入りませんでした。それでも結婚はキャンセルできなかったんです。家をもらえるには13年かかりました。今では4人子供もいるし、妻も愛していますよ。」笑いながら面白おかしく話すルイの話にも、アパルトヘイト時代の弾圧の一端を垣間見ました。

記念館の後は豆やとうもろこしの練ったものの主食に、唐辛子とトマトソースで煮込んだ牛肉、レバー、ソーセージ、サラダなどのアフリカ料理を食べ、障害児施設に向かいました。水頭症の子、言葉が話せない子や足で歩けない子供たちが外の公園で遊んでいました。私たちが来ると大喜びで握手を求め、大歓迎してくれました。私たちが国連やNGO広場に入るためのパスを首からかけていたのが気に入った様子で、写真と本人を見比べていました。抱っこをするとさらに嬉しい様子で、下ろそうとしても「もっとやって!」と手を差し伸べてきていました。ここでは親がいない上に障害を持っている子を引き受けているということでした。 

すぐ近くのお酒とドラッグ依存症の人たちがいる施設は女性が始めた施設で、外を徘徊している人たちを見るのがつらいので、引き受けるようになったということでした。ここにいる人たちは農業をするうちに生活のリズムを取り戻し、また家族の下へ帰れる人もいるそうです。ただ一番問題なのは、毎日皆の食料を確保することだということです。個人の家に十何人もの人たちが寝泊りしているので中は相当狭いのですが、自分の出来ることをやろうという姿勢に、勇気を与えてもらったように思いました。

最後に訪れた孤児やHIV/AIDSの託児所では、3歳ぐらいから6歳までの子を預かっていました。ここも代表は女性です。HIV/AIDSの子供は95年から受け入れ始め、現在6人いるということでした。ここには通っている子供たちもいれば、ここで暮らしている子達もいるようで、一人あたり月/R30(約400円)支払っているということです。先生の指導のもとに元気よく手をあげた子供たちが英語で自分の自己紹介をしたり、習った詩や歌、踊りを披露してくれました。賢くて元気いっぱいの子供たちを前に、CASAや他のツアー参加者も何か披露しようということになり、子供たちが英語で歌ってくれた「幸せなら手をたたこう♪」を日本語で歌ってお別れしました。

朝から夕方までで少しずつしか見て回れませんでしたが、都会の会議場を離れ、人々の生活を垣間見ることが出来てとても有意義な1日を過ごせました。会議はとても重要ですが、ヨハネスブルグだけを見て世界一危険だと思って帰ってしまうとしたら、それはとても残念なことです。多くの人々が貧困にあえいでいる南アフリカで、助け合いながら生きているコミュニティーに少しでも触れる機会があったことはとても貴重な体験でした。

 

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